2019年7月24日水曜日

「의붓-」の意味の変化

韓国語では、<再婚相手の連れ子>のことを의붓아들、의붓딸という、ということを最近知った。面白いことに、男性側の連れ子でも女性側の連れ子でも「의붓-」を使うらしい。この「의붓-」は実はかなりの曲者で、上のような子供を表す語彙だけではなく、両親を表す語彙、果ては兄弟を表す語彙にまでついて<再婚によって生じた義理の~>という意味を示すらしい。

(a)「의붓-」+子供を表す語彙:의붓아들, -딸, -자식, -자녀
(b)「의붓-」+両親を表す語彙:의붓아버지, -어머니, -부모
(c)「의붓-」+兄弟を表す語彙:의붓형, -오빠, -누나, -언니, -동생, -형제, -자매, -남매

의붓아버지(直訳:義父の父)は「馬から落馬」的なよくある言語的重複として解釈できるのでよしとしよう。しかし、母親側の連れ子でも의붓아들(直訳:義父の息子)、의붓딸(直訳:義父の娘)というのは少しおかしいし、의붓어머니(直訳:義父の母)に至っては本人の性別が男なのか女なのか分からない。

初めは文字通り<義父の~>という意味を持っていたであろう의붓-が、どのような過程を経て<再婚によって生じた義理の~>という意味に再解釈され、その意味が固定化したのだろうか。

의붓아들(直訳:義父の息子)を代表的に考えてみよう。この言葉は、現代語では「홍길동의 아붓아들」のように属格を伴って使用することができる、関係性を表す語彙である。しかし、語の中にすでに属格が含まれていることから、最初は「父親」や「子供」のような関係性を表す単語ではなく、「孤児」や「非嫡出子」などのような、社会的な性質を示す単語であったと仮定する。この言葉の本来の意味を自分は最初、<再婚した父親が連れてきた息子>だと考えた。でもこの解釈は、どこか不自然である。

具体的な例をあげながら考えてみよう。男のMさんと女のFさんが再婚したとする。Mさんには息子mがおり、Fさんには息子fがいる。mさんはみんなから의붓아들(義父の息子)と呼ばれている。でも、この世の中でMさんのことを의부(義父)だと思っているのはfさんだけなので、mさんを의붓아들(義父の息子)と呼べるのは厳密にいうとfさんだけということになる。そんな言葉が第三者からみた言葉として使われるのは少し不自然な気がする。もちろん、私のことを「お父さん」だと思っているのは娘ただ一人であるにも関わらず、家族内における私のポジションに言及するとき、みんな「お父さん」と言う。しかしそれは、社会的に見て「子供のいる男性」というレーベルにある程度の意味があるからである。それに対して、家父長制の社会において、あまり重要でない後妻の子供の立場からの呼称である의붓아들(義父の息子)などという言葉が使われるのだろうか。そもそも、家父長制の社会において、「後妻を迎えた父親の息子」であることを強調する必要があるのだろうか。その息子は、父親が後妻をめとろうがめとるまいが、その家の嫡子である。なんら有標的な存在ではないのである。

むしろ、의붓아들(直訳:義父の息子)は<再婚した母親が連れてきた息子>だと考えたほうが自然である。母親の連れ子fには新しい家を継ぐ権利がなく、単純にその家で養われているだけの存在にすぎない。父親の連れ子mが、母親の死や、父親の再婚と関係なく、父と息子の関係を維持しているのに対して、この連れ子fはそのようなものを完全に失ってしまっているのである。そのような息子に対して、外部の人間が、あの息子はあの家の本当の息子ではなく後妻の連れてきた連れ子なのだ、と何か単語を作って呼ぶ必要性が出てくるのは当然のことだろうと思われる。ではなぜ母親の連れ子なのに「義父の息子」というのだろうか。それはもともとの意味が「今の父親が義父である息子」という意味だからではないだろうか。

こう考えると、父親と母親の連れ子の両方が의붓아들と呼ばれる理由も合理的に説明することが可能である。つまり、家父長的な社会においては母親の連れ子だけが有標的であるため、血のつながった父親に育てられている普通の息子(その中には父親が後妻を娶った息子も含まれている)を의붓아들と呼ぶようになった。そのうち、의붓아들が語彙化して社会的性質ではなく家族関係を示す言葉に変化するにつれ使用範囲が広がり、母親の連れ子という意味でも使われるようになった。つまり、「fはMの(Mにとって)의붓아들だ」という表現だけではなく、「mはFの(Fにとって)의붓아들だ」という表現が可能になったのだと思われる。この段階ですでに「의부」が本来持っている意味は無視され、<再婚によって生じた>とい意味になっている。そのことによって、次の段階である「Mはfの의붓아버지だ」や「Fはmの의붓어머니だ」という表現も可能になり、さらに兄弟にも広がったのだと考えられる。

2019年7月15日月曜日

グランドスタッフ

ある人から「空港の地上職のことを何でグランドスタッフっていうんだろうね?」と言われ、確かに何でだろうと思った。

ググってみると、空港の地上職のことは英語ではground staffもしくはground-crewというらしい。なので、グランドスタッフのグランドはgroundを表していることになる。groundならグラウンドだろう。グランドは普通grandを指す。グランドスタッフではgrand staff「偉大なスタッフ」みたいではないか。

流れとしては、グラウンドスタッフというべきものが、訛ってグランドスタッフになってしまったのだろう。それにしてもよくわからないのは、①英語に堪能な人間が多いはずの航空業界でこんな言い方が許容されてきたこと、②日本語の外来語であまり例が見られない/aʊ/:/a/の対応が見られることである。

①に関しては、むしろグランドスタッフ以外の場面ではgorundがグラウンドと規則的に対応しているのが興味深い。学校の校庭はグラウンドであって、グランドではない。とはいえ、これは自分の直感でしかないらしい。Googleで検索してみると、"グランドスタッフ"77万件に対して、"グラウンドスタッフ"18万5000件であり、後者もそれなりに市民権を獲得している。それに対して、"学校のグラウンドで"9万8700件に対して、"学校のグランドで"17万6000件であり、むしろ「グランド」の方が多数派という結果が出た。要するに、単語によって差はあるのもの、日本語においてgroundが「グラウンド」と「グランド」の間で揺れている、というのが現状のようである。(「で」を入れたのは、入れないと「小学校のグランドデザイン」のような用例がひっかかってしまうからである。)

②に関しては、/eɪ/ > /e/のような変化はよく見られる気がする。ぱっと思いつくだけでapron/éɪprən/:エプロン、waist/weɪst/:ウエスト、などがある。探せばもっと多いだろう。ただ、[eɪ]は日本語の音韻体系の中では/e:/の異音に過ぎず、/e/とは長短のみで区別される。日本語の外来語では長音の短音化には比較的寛容(コンピューター>コンピュータ、ホメーロス>ホメロス、など)なので、こちらはまだ納得がしやすい。そう考えると、/aʊ/:/a/の対応はやはり異質である。

日本語の外来語には、message/mésɪdʒ/:メッセージ(メッシジではなく)、sausage/sˈɔːsɪdʒ/:ソーセージ(ソーシジではなく)、 canal/kənˈæl/:キャナル(カナルではなく)のように、元の英語の発音を誤認したまま日本語の音韻に対応させたとみられるものが存在する。これは、日本語の音韻に合わせることで起こった英語との発音のズレや、綴り字を直接写してことでできた外来語とは性質の異なるものなので、注意が必要である。

2019年6月21日金曜日

「여부(与否)」の原意

記念すべき初投稿。

韓国語の「여부(与否)」がどうして「そうなのかどうか」という意味になるのか、ずっと疑問だった。自分が知らないだけで「与」にはyesの意味があり、「与/否」が「yes/no」に対応するのだろう、ぐらいに思っていた。今日、何となく気になって「与否」をググってみると中国語の辞書がひっかかった。

中国語の「与否」の意味を「…であるか否か」と説明している。それを読んでようやく、「여부(与否)」の中で「여(与)」が占めている意味が分かった(気がした)。

中国語の「与」には「~と」という意味がある。つまり、「与否」は直訳すれば「~と否か」だったのである。「사실여부(事実与否)」であれば、「事実と否か」ということになる。ただ、意味としては「~か否か」のはずで、なぜ「或否」とかではないのかは分からない。andもorも似たような接続詞、という発想なのだろうか。

となると、「사실인지의 여부」のような表現において、「-인지의」の部分は完全に「여(与)」とかぶってしまっていることになる。(모래사장や역전앞のように固有語+漢字語の時に起こりやすい現象のようなので特に不思議ではないのだが。)

とはいえ、「생사여부(生死与否)」という言い方が可能なところからみると、現代韓国語の여부の意味は、本来の中国語としての「与否」から少し乖離していると言わざるを得ない。「여부(与否)」が元通り「~か否か」という意味を持っていると仮定すると、「생사여부(生死与否)」は「生きているか死んでいるか否か」となり、3択の質問になる上に「否」が何を指しているのか分からなくなってしまう。実際には、現代韓国語における「생사여부(生死与否)」は「生きているか死んでいるかどちらなのか」という意味を表しており、「여부(与否)」はここでは「どちらなのか」という意味で用いられている。

このことから、「여부(与否)」の本来の用法は反意語を含まない二文字語に後接するものだったのだが、後で使用範囲が拡大して「XY」(XとYは反意語)にも使えるようになったのではないか、という推測が可能になる。もちろん、歴史的な資料を見れば、「여부(与否)」の用法が実際に上のように拡大していっているのかを調べることは可能なのだろうけど、とりあえずここでは頭の中で考えた可能性を提示するだけにしておく。

「의붓-」の意味の変化

韓国語では、<再婚相手の連れ子>のことを의붓아들、의붓딸という、ということを最近知った。面白いことに、男性側の連れ子でも女性側の連れ子でも「의붓-」を使うらしい。この「의붓-」は実はかなりの曲者で、上のような子供を表す語彙だけではなく、両親を表す語彙、果ては兄弟を表す語彙にまでつ...